環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?2007/01/25 23:00

        環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か ?    


                  糸土 広

1. はじめに
 中西準子「水の環境戦略」1)、「環境リスク論」2)が立て続けに出版された時に、その大胆で刺激的な内容に大きな衝撃を受けた。ダイオキシンに関する各種規制値やベンゼンなどの発がん性化学物質に関する環境基準、排出基準などがリスクアナリシスを基にして決定されたという流れとあいまって、環境政策決定のためのツールとしてのリスクアナリシス(あるいはリスクアセスメント)の重要性について、愛知県環境部職員および県議会議員に向けたテキスト「環境リスク論のススメ」3)を書くことにつながった。
 しかし、その後の中西氏の言動と軌跡には危ういものを感じてきた。例えば東京大学教授を経て横浜国立大学教授、さらには現職である産業技術総合研究所化学物質リスク管理研究センター初代所長に就任した軌跡、そしてリスク管理に関連した莫大な科学研究費がある。この疑問がさらに確たるものとなったのは、2004年12月に名古屋で開催された環境省主催「第7回内分泌撹乱化学物質問題に関する国際シンポジウム」の第6セクション「リスクコミュニケーション(コーディネーター:中西氏)」を目撃した時であった。詳細は省くが、環境ホルモン性が疑われる化学物質をわりだすためのSPEED91事業の中止など、環境ホルモン問題からの撤退を図りつつあった環境省の意を汲んで議論が展開されたものと考えざるを得ないものであった。
 さらに、同じ年に出版された中西準子「環境リスク学-不安の海の羅針盤」4)は、中西リスク論批判を開始しなければならないことを決断させるものであった。前著「リスク論」で述べられていたリスクアナリシスの危うさに関する部分が全く削除され、不安の海すなわち不確実性の世界へと突入した現代において、向かうべき方向を指し示す羅針盤こそ「リスク学」なのだという自信に満ちた記述が全編を貫いていたのである。
 しかし、批判の作業は容易ではない。相手方は、10年余りにわたって莫大な研究費、スタッフに恵まれ、ハンドブック5)まで出版するほどの蓄積がある。政府や化学工業会からの支援もある一種の強大な権力にも似た陣容である。
 こうした折、エントロピー学会名古屋懇話会6月例会に松崎早苗氏をお招きして意見交換をする機会があった。その時に集まったメンバーを中心として今回の自主企画「どこかおかしい、どこがおかしい、環境リスク論」が計画されたのである。まずは小手調べ、不十分を承知で「どこかおかしい」の直感を具体的なものとして展開し、エントロピー学会年会2006の参加者とともに考えてみたい。

2. 「不安の海へ」と漕ぎ出したのは誰か?
 科学技術の巨大化は、「失敗は成功の母」という科学技術自身の発展原理を喪失せしめたと述べたのは高木仁三郎氏であった。つまり、失敗がもたらす被害が巨大すぎるがゆえに失敗が許されなくなってしまったというわけである。それにもかかわらず核技術、遺伝子組み換え技術、クローン技術、臓器移植、化学物質の新規開発などにブレーキがかかる気配は一向にない。科学技術の発展方向は権力と金に支配されると述べたバナール6)を引用するまでもなく、軍事や企業利潤追求の圧力に科学技術者自らの名誉欲や金銭欲が加わって、科学技術の暴走が始まっている。
 これらの科学技術には不確実性が伴う。化学物質の急性毒性なら動物実験で簡単に明らかにすることが出来た。しかし、発ガンなどの慢性毒性では作用濃度に閾値がないがゆえに、安全と危険の境目がない。さらに潜伏期間が長く、それ以外の多数の発ガン要因が世の中に充満しているがゆえに、因果関係を明らかにすることも難しい。ましてや複数の化学物質による相乗作用に至っては、ほとんど解明不可能と言って良い。環境ホルモンのような、毒性が発揮されるタイミングが限定されたり、濃度比例性のない毒性の解明もきわめて困難である。
 時間とお金を大量にかければ科学は自然界の全てを明らかにしてくれる、あるいは、未知領域がやがてはすべて既知になるという楽観主義はとうの昔に破綻している。未知領域の多くは不可知領域と事実上等しいのである。この「不安の海」に人類を連れ込んだのは、国家権力であり、企業であり、科学技術者という名の専門家である。
 環境リスク学が「不安の海」の羅針盤だというのなら、知らぬ間に連れ込まれた市民、住民を守る道具として機能し、住民自身が自らの生命と子々孫々の生命とを守るために主体的に使いこなせるものでなければならないだろう。しかし、事実はそれとは裏腹に専門家以外が使いこなすことは難しく、国家が政策を国民に押し付けたり、企業が現状を肯定するために使われる巧妙な道具として機能してきたことが欧米の市民運動サイドから指摘されている7~8)。市村は9)具体的に、リスクベネフィット分析にあたって比較考量されるdB/dR=リスク削減費用/リスクの大きさ(=一人の生命を救うための費用)について、dBは専門家や企業にしか算定できないし、ある意味では企業側の言いたい放題の算定が可能な項であり、dRも専門家にしか算定できないし、リスク評価そのものが不確実性に満ちていると指摘している。

3. ゼロリスク神話をふりまいたのはだれか?
 「砂糖でも塩でもたくさん食べれば毒性がある」とか「絶対に切れない堤防はない」とか、すなわち絶対安全などというものはないのだという台詞に頻繁に遭遇するようになった。自己責任という言葉がついてくることも多い。遺伝子組み換え植物、食品の安全性を強調する農林水産省の市民向けに編集された分厚いリーフレットには、「いかなる食品にもリスクはある」「組み換え食品のメリットも考慮しよう」、まさにリスクアンドベネフィットの理屈が国民に組み換え食品を押しつけていく論理に使われている。
 秀作ドキュメンタリー映画「六ヶ所村ラプソディー」(監督:鎌仲みゆき)の中で、原発推進派の原子力委員である斑目東大教授は「再処理工場という危なっかしい装置を安全に運転するなんてことはとても難しい」旨の発言をしている。「最後はお金ですよ。金額は地元住民が納得するところで決まるでしょう」とも発言している。
 しかし、絶対安全神話をふりまいてきたのは国家であり企業だったのではないだろうか。その当事者が、突然手のひらを返すように「絶対安全」はありえない、だからリスクコントロールしながらいくしかないのだとお説教を始めているというのが現在の状況である。そのための絶好の理論あるいは理屈を提供しているのが環境リスク論なのである。環境リスク学研究者は、この事態を正視した上で仕事をするべきである。

4. リスクベネフィット分析の適用ルール
中西は「水の環境戦略」1)「リスク論」2)の中でリスクベネフィット分析手法を適用するにあたってクリアされなければならない4つの原則について丁寧に述べている。すなわち、イ)リスク受忍者とベネフィット受益者の一致 ロ)リスク受忍者に選択権がある ハ)ベネフィットの分配の公平性 ニ)リスク算定の正確さ である。このうちのどれが欠けてもリスクベネフィット法の適用は出来ないとしている。
一方、同じ著者が「リスク学」3)では、BSE牛輸入を防ぐための全頭検査の是非をめぐって日本政府及び日本国民の「非科学性」を指摘している。100年間の全頭検査に要する費用2000億円に対して、それで救われる生命は1人にすぎないから馬鹿げた対策だというのである(計算過程への疑問は後で述べる)。しかし、この計算結果から導かれる政策を国民全部に押し付けるとすると、「ロ)リスク受忍者には選択権がある」に違反することになる。 
この例のように、「リスク論」から「リスク学」へ移行する約10年間における中西氏の変化は顕著なものがある。
米本昌平「バイオポリティックス」10)にも同様の原則違反の記述がある。「遺伝子組み換え作物の危険性について、GM食品について反対派が要求するような安全性を求めるのであれば、まずタバコを禁止するべきであろう」と述べている。タバコの害が大きいことは間違いないし、それに対する規制がゆるいこともまた事実である。早急に抑止対策を採るべきである。しかし、このこととGM食品を国民全部が押し付けられて良いかどうかとは全く別の問題である。受動喫煙の問題を除けば、タバコはリスク受忍者とベネフィット受益者が一致しているし、受忍者に選択権がある。GM食品では選択権がないのである。

5. 未知因子および破滅因子
中西は「リスク論」2)で、アメリカの心理学者P.スロヴィックの論文を引用して、専門家と一般市民のリスク認識が異なっていること、専門家はリスクの大きさ(年間死亡率)で判断するが、一般市民は制御できないような、地球を破滅させるかもしれないような、破滅因子や未知因子を重視して判断しているという調査結果を紹介し、「この結果を見る限り、市民の判断が非科学的だとはいえない。いかに発生確率が低くとも、人類や地球を破滅させるようなリスク、あるいは未知因子を多く含んだリスクを避けようとするのは当然だからである。今後リスク論を使って化学物質規制の方向性を考えていく時、リスクの期待値だけを問題にするのでなく、ここにあげられた因子を考慮するべきだと思う。」とコメントしている。10年後に書かれた「リスク学」3)では前述のように、一般市民の求める狂牛病予防対策としての全頭検査を非科学的だとして切って捨てている。
 この点について市村は9)、BSE牛防止のための全頭検査費用2000億円が牛肉100g当り1円に相当することを示した上で、dB/dRの大きさから全頭検査が非科学的と判断する「専門家」と、確実に存在するdRとしての未知リスクを回避するために1円は妥当な金額dBだとする一般市民の判断の間に優劣はないと述べている。

                                    (つづく)

環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(2)2007/01/25 22:59

6. リスク科学の危うさ
近代科学技術が成功を収めた背景には定量的手法が根底にある。従って、定量的手法になじまない領域は未知のままで取り残されてきた。近年重要性が指摘されて、科学研究費が流れ込むようになった生態学などはそうした領域にあり、研究費が増えてもそう簡単に成果が上がるとは思えない。
リスク科学が対象とする不確実な事象もまた定量的手法になじまない。やむなくそれを確率として表現して、無理やりに定量的方法で取り扱ってしまおうというやりかたである。しかし、対象が極めて不確実で、数値化するときに無理に無理を重ねているにもかかわらず、いったん数値化されてしまうと従来成功してきた可知領域と同じような扱いを受ける。ましてや、その計算結果を提示された市民や行政を含めた非専門家に対して、可知領域での計算結果と同等の威力を発揮してしまう。このことについてリスク科学に携わる研究者は相当な自戒の精神を持ってあたる必要があるであろう。
白鳥11)は、「リスク科学」は実証科学ではないと述べ、ワインバーグがトランスサイエンスtrans-scienceと呼んだ領域、すなわち「原理的には科学で扱える筈でも、条件が制御できないために実際上は科学が扱えない領域」があることを紹介している。
菅原努12)は、やはりワインバーグの著書について、科学の世界で出された問題で科学だけで決着がつかないもの、例えば低線量放射線問題、まれにしか起こらない事故などについて、科学と政治との間にトランスサイエンスという領域を挟みこむという提案があると紹介し、「トランスサイエンスの世界では科学者も余り科学を振り回さないように注意するべきだ」と述べている。
食品安全委員会プリオン専門調査会委員であった金子清俊13)は、専門委員会に諮問されたのは「科学に基づいたBSE対策についてのリスク評価ではなかった」と述べている。同じBSE牛問題に関して、人体への感染の可能性が指摘されていたにもかかわらず、当時のイギリスの専門委員会は「可能性あり」の結論は世論に大きな影響を与えるという政治的判断を優先して「可能性なし」との結論を発表し、その後の悲惨な人体感染を招いたという話は有名である。

7. 予防原則
予防原則については、本誌、安藤直彦論文で欧米における近年の論争に関する詳しい報告があるので詳述は避ける。
地球環境サミット(1992年)のリオ宣言第15原則14)では「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きな対策を延期する理由として使われてはならない。」とされていることは有名である。これに先立って予防原則の考え方は、1970年代にドイツの環境保護政策に採用され、国連「世界自然憲章」(1982年)に盛り込まれ、第2回北海保護国際会議(1987年)で「the principle of precautionary action」という用語が初めて用いられたとされている。1998年にはウイングスプレッド宣言15)が発表された。
この予防原則がリスクアセスメントに対抗するものなのか、互いに補完しあうものなのかについてリスク論側の主張を見ておきたい。中西らが編集した「環境リスクマネジメントハンドブック」5)において、岡敏広は以下のように述べている(同書368ページ)。-「科学的に不確実な状況下での意志決定の必要性は環境問題の歴史とともにあるのだが・・・(このような場合に適用されてきた予防原則は)科学者からは一種の「割り切り」としか意識されなかった。逆に、政治家や市民の中には、そのような決定があたかも科学根拠に基づいているような幻想を持つ空気があったが、(実は)確かに「割り切り」であった。・・・割り切りである限り、・・・予防の側に大きくふれた振り子が、やがて非予防の側に振り戻されたり、・・・熱が醒めると色褪せて見えたりといったことが繰り返されるしかなかった。・・・リスク評価は部分的に科学的知見を取りいれるが、全部が科学的ではない。それはむしろ、科学的に不確かな要素が残っている時の意志決定を、システマティックに一貫性を持って行うための道具である」-非科学的な予防原則に替わる「部分的に科学的な意志決定手段」としてリスク評価、リスク管理を位置づけているのである。
同じハンドブックで(同書410ページ)、岸本充生は、予防原則をリスク評価に取って代わるべき科学的プロセスとするSantilloらの主張16)に対するChapmanの反論17)「予防原則はリスク管理のための数多くのアプローチのうちの一つに過ぎない」を示して、予防原則の4つのジレンマを指摘している。すなわち、1)予防原則を適用すると対策費用が通常よりもはるかに多くかかる可能性があり、2)予防原則が新たなリスクを引き起こす可能性があるとして、トリハロメタンによる発ガンリスクを回避するために病原性微生物による感染症リスクを見落とした事例や、DDT禁止によるマラリア患者の増加の例を挙げ、3)対象となるハザードが用量によっては便益をもたらす可能性を見逃す可能性ありとして、低線量放射線暴露によるホルミシスを例に挙げ、4)予防原則による決断を行わずに研究投資することが賢明である可能性として、研究によって不確実性が減少して正しい決断にたどりつける可能性を挙げている。
二人の主張はいずれも、予防原則は科学的手段だと誤解される傾向があるが非科学的であり、一部不確実な(科学的でない)部分を含むとはいえ、リスク評価、管理手法は合理的で優れているというものである。しかし、すでに前節で述べたように「部分的に科学的な(実証科学的なという意味だと思われるが)」手法がより科学的である保証はどこにもない。むしろ科学的であることを装って、その結論を市民、国民に押しつけるやりかたがはびこっている弊害の方が大きいのではないだろうか。「部分的に科学的である」ことは、専門家や行政担当者をも「科学的に得られた結論である」という自己暗示にひきずりこむ可能性が高いように思われる。不確実領域に対する態度、やり方として、予防原則の方がむしろ科学的態度を貫いているのではないだろうか。このことについては、BSE牛対策としての全頭検査は正しかったとする予防原則側からの指摘を紹介しながら、具体的に次節で述べる。
さらに、岸本の示した4つのジレンマは、予防原則に限定される問題ではないことも指摘しておきたい。リスク便益分析法はコスト便益分析の一種であることは「ハンドブック」5)も認めていることであるが、そのコスト便益分析法の失敗事例がある。次節で詳しく述べるが、1970年代のアメリカで厳しい自動車排ガス規制を目指したマスキー法がコスト便益分析の結果から廃案となった。そのアメリカ車が、日本版マスキー法の厳しい基準をクリアするために技術開発に励み、その副産物として低燃費となった日本車に敗北した。この事例は、コスト便益分析の不確かさ、既存の常識や枠組みにとらわれて保守的な結論を導きがちであり、想定外の事態に対応出来ない致命的な欠点があることを示している。追加的な費用がかかってしまう可能性はリスク手法側にもあるのである。また、予防原則が新たなリスクを引き起こすという指摘は、予防原則手法を矮小化している。水道水による感染症リスクを見落とすかどうかは予防原則固有の問題ではない。また、ホルミシスの存在については、原発や放射線利用推進側の宣伝材料に使われてはいるが、科学的に実証されているとは言い難い。このような不確かな現象についてリスク評価したからといって、より科学的になるわけではないから、予防原則が低用量の便益を見落とす可能性があるとの指摘は適切ではない。最後の指摘については、研究投資して化学物質の使用を禁止しなかった場合のリスクについてふれていないこと、予防原則を適用したからといって研究投資をしないわけではなく、まずとりあえずは使用禁止にして、安全性が証明されたら使用を再開すればよいわけだから、岸本の指摘は不適切である。
                                    (つづく)

環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(3)2007/01/25 22:58

8. リスク評価における問題点
  
1) 低用量外挿の問題
 化学物質の急性毒性の評価は動物実験で行われてきた。例えば、いくつかの濃度について100匹ずつのネズミを用いて投与試験を行い、得られたS字型曲線からLD50(50匹のネズミが死ぬ濃度)やL0(この濃度以下なら1匹も死なない濃度)が求められる。L0に通例は安全率10分の1を乗じて、それ以下なら安全(すなわちリスクゼロ)として管理を行えばよい。
しかし、慢性毒性のある化学物質の毒性評価は難しい。発病するまでの潜伏期間が長いうえに、極低濃度でもたらされる毒性をつかまえなければならない。しかし、実験手法は急性毒性の場合と同じ動物実験しかない。ネズミの実験を例にとれば、生涯リスクが10-5、すなわち10万人に一人が死ぬ投与量を求めようとすれば、1000万匹のネズミのうち100匹が死ぬ投与量を求めなけらばならないことになる。そんなことは不可能である。そこで、ネズミの数は100匹(ないしは50匹)のままで、投与量を1万~10万倍にして実験を行い、得られた結果を実験投与量の1万~10万分の1のところまで外挿するのである。しかも、設定される投与量も4種類程度に限定されるから、用量作用曲線のプロットは4点程度ということになる。
左図2)に示したように、外挿にあたって用いる数学モデルによって、得られる結果は大きく違ってくる。最も厳しい評価となるワンヒットモデルとは、直線外挿モデルである。アメリカEPAが用いているのは、これをわずかに変形した線形多段階モデルである。これらのモデルと、最も甘い評価となる対数正規モデルとでは、得られる結果に10-5において約1万倍の差がある。すなわち、リスク評価の危うさの第1は、極めて高濃度で行われた実験結果を、実証科学の領域をはずれた実に大胆な低用量外挿をしなければならないところに内在しているのである。

2) 不確実性係数の問題
 急性毒性の評価で安全係数と呼ばれていたファクターが、リスク評価分野では不確実性係数と呼ばれている。不確実性が発生するのは、前項で示したような低用量外挿のプロセスだけではない。種間差から来るものも大きい。すなわち、実験動物と人間との毒物感受性の差である。ダイオキシンの急性毒性について調べられた表を見ると、ハムスターとモルモットで1万倍の差があるというデータがある。これは特別に極端なケースではあるが、リスク評価で用いられている不確実性係数は何故か10以内におさめられている。
 個体差からも大きな不確実性がもたらされる。急性毒性についての毒物感受性の個体差は10~100倍程度であるが、リスク評価ではやはり10以内におさめられている。前掲ハンドブック5)の238頁で蒲生昌志は、増山18)を引用して、様々な薬物の体内半減期の個人差が0.1~0.2の範囲に収まること、母乳中PCB濃度の個人差が約0.3であることなどから、人間の個体差に関する不確実性係数の妥当性を述べている。ここで用いられている個人差は常用対数値の標準偏差(logGSDすなわち幾何標準偏差の対数)である。それが0.3であるということは、対数正規分布を仮定したとき分布の5%と95%ile値の比が10、1%と99%ile値の比は25となる。ということは、個体差に起因する不確実係数を10にした時に、分布の5%より外側は無視されることになるのではないだろうか。
 例えば化学物質過敏症などの高感受性群については不確実性係数10では対応し切れていないことは明らかである。高感受性群について蒲生は、それが少数であれば特別に取り扱うことは困難であり、数が多ければ別個にリスク評価しなければならないだろうとし、アメリカの食品品質保護法では、乳幼児に対して特別にさらに10倍の安全係数を適用することが提案されていることを紹介している。この文脈からすると、化学物質過敏症などの脆弱性少数者は切り捨てられていることになるだろう。
 不確実性要因は他にもある。高感受性群の存在に起因する不確実性、データの質に起因する不確実性、動物実験からNOAEL(無毒性量)が得られず、LOAEL(最小毒性量)しか得られない場合があるが、その時LOAELからNOAELを推定するときの不確実性などである。これらの不確実性係数を乗算すれば、トータルの係数は1000~10000にもなる可能性があるが、現実に適用される係数は100以下におさめられている。かって急性毒性について用いられてきた安全係数10~100は、経験から「まあこんなものだろう」として適用されてきたが、不確実性係数も結局は1000や10000では使い物にならないから100以内におさめられているという側面があるようである。

                                (つづく)

環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(4)2007/01/25 22:57

3) 「不確実性」を曲解する官僚答弁
 全国各地で地下水が汚染されている。とりわけ有機塩素化合物を中心とした発ガン性を有する揮発性有機化合物による汚染は深刻である。基準の数100倍~10000倍もの濃度が検出されたとの報道が各地で頻発している。これらの報道には決まって行政機関担当者の「すぐに人体に被害が出ることはない」というコメントがついている。これまでのようなシアンや水銀などのような急性毒物であれば、基準を少しでも超過すれば操業停止を含む処分がなされ、一刻も早く汚染が止まるような施策が講じられた。しかし、リスク評価をベースとして基準が設定されるようになってからは、不確実性係数の存在を意識しているとしか思えない緩慢な対応が目立っている。
 清涼飲料やドリンク剤に添加されるアスコルビン酸(ビタミンC)と保存料の安息香酸が反応してベンゼンが生成してしまうという問題が明らかになり、日本消費者連盟が調査を開始している19)。その報告からこの問題に関する一つの事例を紹介しておきたい。FLPジャパンリミテッド社のアロエベラジュースから水道法基準超過のベンゼンが検出され、分析した長野県松本保健所、東京都港保健所から自主回収と製造販売の自粛を要請されたが同社はそれに応じていないという。この問題について厚生省は「特段の健康影響を生じることを意味しない」とコメントしているのである。

4) BSE牛対策のための全頭検査に関するリスクベネフィット分析について
 「環境リスク学」4)で中西が批判しているBSE牛対策のための全頭検査について整理しておきたい。まず中西の主張を簡単に要約すると以下のようになる。
 ①イギリスでは75万頭のBSE牛が食べられて、最大661人死亡(2003年までに139人)。すなわち、食べられてしまったBSE牛1000頭あたりの死亡者が1人である。②一方、アメリカでは年間4000万頭の牛が屠殺され、そのうち100万頭が日本へ輸入されている。③アメリカでの検査結果では、5.7万頭検査して1頭の感染牛が発見された。④95%信頼上限からアメリカでの感染牛は4000頭。すなわち、日本へ輸入される感染牛は100頭以下となる。⑤危険部位を除去して残留率10%なら100頭は実質10頭分(10頭当量)となる。⑥すなわち、100年間食べ続けて死亡者は1人にしかならない。⑦100年間の全頭検査費用は2000億円。すなわち、死者1人を防ぐために2000億円は法外なハイコストであり、全頭検査はナンセンス。
 筆者は原典に当たっていないので、これらの推定の不確かさについて具体的に指摘することは出来ないが、①の推定計算にはかなりの不確実性が想像される。③についても、1例だけのデータからの推定は統計学的に見て相当に乱暴である。⑦に至っては、現在の年間全頭検査費用を単純に100倍しただけであろうが、無茶である。大量検査をルーチン化すれば検査コストはどんどん下がっていくことは通例である。豚や鶏への肉骨粉使用を未だに禁止していないアメリカの現状を改め、BSE牛が出ないような体制を確立するための過渡的な措置としての全頭検査であれば、100年間続くとして金額を過大に見せるのもおかしい。
 これに対して、予防原則の立場に立って全頭検査は正しかったとする人々の見解を以下に紹介しておきたい。福岡20)は全頭検査が消費者を安心させるための単なるパフォーマンスとして行われたという言説をきっぱりと否定して、科学的な安全対策として適切なものであったとして、以下の理由を挙げている。①日本で発生したBSE感染牛の発生原因が不明である。なぜなら、14例中の2例が若齢感染(21ヶ月齢と23ヶ月齢)であり、イギリスではほとんどなかった現象である。②日本で発生したBSE牛の感染ルートや感染規模が不明であった。すなわち、肉骨粉禁止(1996年)以後に生まれた牛でも発生している。12例目は1999年、14例目は2000年、8,9例目は2001年秋以降である。③牛の年齢特定が難しく不確実。すなわち、一カ所で一貫した飼育が行われているケースは少なく、種付け、肥育、搾乳が分業化されているからである。④全頭検査をすれば、病原体の拡散や作業者への暴露を最小限に抑えることが出来る。全頭検査をやめて、どこかで知らないうちに感染牛が処理された場合は、交差汚染、誤ったリサイクル、作業者の被爆などを防ぐことが出来ない。
また、神田21)は米国では検査率が低く、特定危険部位(SRM)への対処の仕方についてのルール違反が頻発していること、反芻動物から反芻動物への肉骨粉投与だけが禁止されているだけであり、そのことすらも徹底していない現実があることを指摘している。山内21)は、アメリカでは特定危険部位が依然として肉骨粉の原料として利用されていることを指摘している。
山内22)は、BSE最小感染量に関するイギリス獣医学研究所の最新の論文を紹介して、牛では1mgないしはそれ以下でも感染するとしている。さらにマウスは牛に比べてプリオンに対する感受性が500倍も低いこと、すなわち種間差がきわめて大きいことがわかったとしている。また、感染ルートによって感染のしやすさが大きく異なっており、伝達性ミンク脳症をハムスターに感染させる実験では、経口と比べて舌の傷からの感染効率は10万倍も高いことがわかったとしている。このことはすなわち、BSE牛を食べたときに歯の疾患などで口腔内に何らかの傷があれば感染リスクは極めて高いものとなることを示しているのである。
横山ら23)は、末梢神経や副腎からもプリオンが検出されたとし、特定危険部位以外でもプリオンが存在することがわかってきたとしている。プリオン病原体説でノーベル賞を受賞したスタンリーB.プルシナーら24)は、アメリカでも全頭検査をするべきだと主張してきたが聞き入れられていないと述べ、一部の牛肉生産者の中には全頭検査を受け入れたいとしているものもいるが、農商務省が聞こうとしていないとも述べている。また、プリオン病には未解明な点が多く、アルツハイマー病やパーキンソン病との関係も疑われるふしがあり、異常型プリオンの摂取を絶つために出来る限りの努力をするべきだとしている。
こうした予防原則の立場に立つ研究者の見解は、硬直した推論を重ねる中西氏の言説に比べて確かな説得力を持っているように思われる。

5) コスト便益分析の失敗事例
 すでに述べたようにリスク便益分析はコスト便益分析の一種であると考えても良いことは、リスク学派の人々も認めている。そこで、コスト便益分析の失敗事例として前節でふれたアメリカにおける自動車排ガス規制を挙げて、リスク便益分析の欠点を明らかにしておきたい。
 1970年代のアメリカで、自動車排ガス規制に関するマスキー法がコスト便益分析の結果から否決された。一方、日本版マスキー法を成立させた日本では、自動車メーカー各社が排ガスをきれいにするためにエンジンの改良を重ね、結果として低燃費車の開発にも成功した。折しも2度にわたって石油ショックが起き、低燃費車が脚光を浴び、世界自動車市場で日本車がアメリカ車に勝利してしまったのである。この事例は「環境によいことは経済にも良い」ウィンウィン学説の好事例として紹介されることが多いのであるが、ここではコスト便益分析が何故誤った政策判断をもたらしたのかを考えてみたい。
 排ガスによる汚染レベルを放置すれば肺ガンなどの死亡者が出る。また、マスキー法を成立させて厳しい基準を適用すれば、自動車メーカーは対策に余分なコストがかかり、それが自動車価格に上乗せされれば、アメリカ車の国際競争力が落ちて売り上げが落ちる。そのことの損失と、自動車排ガス由来の肺ガン死亡者数に生命の値段を乗算したものとを比較して、肺ガン死亡者の発生を放置する政策を選択したのである。この計算には、石油ショックによるガソリン価格の高騰は想定されていなかった。また、排ガス対策のためのエンジン改良が、燃費の改善にもつながることも想定されていなかったものと思われる。すなわち、分析がなされるその時点での既存の知識、情報、価値観しか計算に含めることが出来ない。コスト便益分析が与える結果は現状肯定型であり、保守的なものになりやすいということもできるのではないだろうか。とうてい「不安の海の羅針盤」などと胸を張れる代物とは思えない。

6) その他の疑問点
 リスク評価において、毒性に閾値があるかどうかの判別は発ガン性が確認されたかどうかで行われている。催奇形性などが確認されても閾値なしとしては扱われない。その理論的根拠はどこにあるのだろうか。
 複数の化学物質の毒性リスクは、単一物質のリスクの足し算でしか処理されていない。相乗効果には全く手が届いていないのが現状であり、そのことについての不確実性も考慮される必要がある。
 環境ホルモン(内分泌攪乱物質)のように、作用機序そのものが未解明であったり、作用に濃度比例性がなくて、発生のある時期にピンポイントで作用するような毒物に関しては、リスク評価手法そのものが無力であるように思われる。にもかかわらず、「環境ホルモンなんか大したことはない」という中西氏の姿勢はいかなる根拠と確信に基づくものなのであろうか。

                                (つづく)

環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(5)2007/01/25 22:57

9.科学者・科学技術者としての立ち位置
 エントロピー学会2006年会におけるアイリーン・スミスさんの基調講演の中で、今も終わっていない水俣病問題に関連して「科学には愛がなければならない。愛がなければ何も見えない。」という趣旨のことが語られて胸を打たれた。
科学や科学技術が権力や資本に奉仕するものであったり、戦争で人の命をあやめるために利用されたりしてはならないとする科学者および科学技術者の懊悩や運動の歴史は長い。筆者自身も1970年代全共闘運動のただなかで自らの科学技術者としての進むべき道を問い直し、選び直した経験を持っている。その当時、幼子の手を引いて境川流域下水道建設反対運動をサポートするために愛知県刈谷市に何度もやってきた中西準子氏の姿はまさにお手本であった。思えばエントロピー学会に集まった人々の多くも同じ思いを抱いた人々であった。あれから30余年、改めて我が来し方を振り返るとともに、中西氏の立ち位置の変わりかたに驚愕してしまう。
エントロピー学会の参加メンバーの高齢化、停滞を感じるようになって久しい。結成以来25年、ちょうど節目の年にあたり、改めて活性化を目指したいものである。その起爆剤として、環境リスク論批判の議論が役立つことを望みたい。時はまさに実証科学が通用しない不可知領域(あるいはトランス領域)の広大な広がりを眼前にして、科学者、科学技術者の進むべき方向性が問われている。「愛のある科学」は、我々にとっての羅針盤かもしれない。

<参考文献>
1) 中西準子:「水の環境戦略」、岩波新書(1994年)
2) 中西準子:「環境リスク論」、岩波(1995年)
3) 大沼淳一ら:環境リスク論のススメ、愛知県環境調査センター所報別刷(1997年)
4) 中西準子:「環境リスク学-不安の海の羅針盤」、日本評論社(2004年)
5) 中西準子ら:「環境リスクマネジメントハンドブック」、朝倉書店(2003年)
6) バナール:「歴史における科学」
7) Environmental-Research-Foundation<http://www.rachel.org> and<http://www.precaution.org>
8) Science and Environmental Health Network: Risk Assessment and Risk Management <http://www.sehn.org/pppra.html>
9) 市村正也:中西リスク論について、エントロピー学会名古屋懇話会2006年8月例会レジメ
10) 米本昌平:「バイオポリティックス」、中公新書(2006年)
11) 白鳥紀一:科学的方法の限界と科学者・技術者の位置について、「物理・化学から考える環境問題」、(藤原書店)
12) 菅原努:http//taishitsu.or.jp/topics/t0002-a.html
13) 金子清俊:BSE問題から浮かび上がるリスク分析システムの課題、科学、76(1)、52(2006)
14) United Nations Conference on Environment and Development : Rio Declaration on Environment and Development (1992)
15) Wingspread Consensus Statement on the Precautionary Principle
16) Santillo,D.,Stringer,R.L.,Johnston,P.A.,Tickner,J. :The precautionary principle: protecting against failures of scientific method and risk assessment, Marine Pollution Bulletin, 36(12), 939-950(1998)
17) Chapman, P.M. :Risk assessment and the precautionary principle: a time and a place, Marine Pollution Bulletin, 38(10), 944-947(1999)
18) 増山元三郎:数に語らせる 第2版(岩波書店)(1980)
19) 消費者リポート:2007年1月17日号(通巻1355号)
20) 福岡伸一:BSE対策:現状と問題点、科学、75(1)、48-59(2005)
21) 金子清俊、神田敏子、水澤英洋、山内一也:何が問われるべきか-私たちは米国産牛肉を食べない、科学、76(11)、1105-1112(2006)
22) 山内一也:BSE感染リスクの評価に関わる研究の現状、科学、76(11)、1118-1121(2006)
23) 横山隆、舛甚賢太郎:特定危険部位以外におけるBSEプリオンの蓄積、科学、76(11)、1134-1137(2006)
24) スタンレイ・B.プルシナー、山内一也:全頭検査こそ合理的、科学、76(11)、1102-1104(2006)

                                        (完)