剣岳・点の記 ― 2009/07/18 12:16
剣沢武蔵谷出合いからの剣岳(5月3日撮影)
タイトルとポスターに誘われて、久しぶりに劇場映画を見た。
剣岳に初登頂したのが陸軍陸地測量部の柴崎技官であったことは
高校時代に山岳部で登山を始めた時から知っていたが、
新田次郎がそれを小説にしていたことは知らなかった。
この作品は、新田作品を原作として制作されていたのである。
そもそも、新田次郎という作家が嫌いなので、
その作品はほとんど読んでいない。
フランス・ローヌアルプスを歩く時にガイドブック代わりに入手した
「アルプスの谷、アルプスの村」だって、
エタンソン谷に悪態のつきっぱなしでひどく感じが悪かった。
出版社が旅費を持って、ガイドまでつけてくれての大名旅行を
本にしているのも気に入らない。
それはともかくとして、この映画は映画館で見て正解であった。
残雪の立山連峰が余すところなくふんだんに出てくるだけでも
ご機嫌である。山岳映画にありがちなわざとらしい演出も
若い測量部員が岩場で無理して滑落するシーンを除けば、
さほど多くはなく合格である。
(南米ペルーアンデスで実際にあった遭難事故を題材にした
「死のクレヴァス」ほどのリアリティはないが・・・〕
創設間もない日本山岳会の小島烏水との初登頂争いが
本当にあったのか、あるいは新田次郎の創作だったのか、
史実がどうだったのかを後で調べてみたいものだが、
ドラマに色をつけるためには仕方がない展開であろう。
見栄と権威、権力の塊である帝国陸軍陸地測量部幹部将校たちと
技官・柴崎とのスタンスの違いもややわざとらしさはあるものの、
悪くはない。浅野忠信演ずる柴崎と、
山案内人・宇治長次郎(香川照之)の
淡々とした仕事ぶりとの対比がよいのである。登山家でないので、
山登りに情熱があるわけでもない。上司の命令でやむなく頂を
目指す柴崎と、それを助ける実直な山案内人という描かれ方は
納得がいく。
ほとんど全編にふんだんに雪山シーンが登場するのが
意外であったが、実は必然性があったことに気がついた。
地図作成のための測量で登山をするためには、積雪期こそチャンスなのである。道なき山に登頂するための最良の時期は
残雪期、すなわち、我々山スキーヤーと同じなのである。
三角測量に用いられた測角儀が意外にも軽量で
コンパクトに見えたのも意外であった。
1メートルの長さを決めるためにパリを通る子午線にそって、
地中海(バルセロナ)から北海(ダンケルク)までを7年間かけて測量したフランスの天文学者達は、70~80キロもの測定器を
ピレネーの峰峰まで運び上げているのである・・・
タイトルとポスターに誘われて、久しぶりに劇場映画を見た。
剣岳に初登頂したのが陸軍陸地測量部の柴崎技官であったことは
高校時代に山岳部で登山を始めた時から知っていたが、
新田次郎がそれを小説にしていたことは知らなかった。
この作品は、新田作品を原作として制作されていたのである。
そもそも、新田次郎という作家が嫌いなので、
その作品はほとんど読んでいない。
フランス・ローヌアルプスを歩く時にガイドブック代わりに入手した
「アルプスの谷、アルプスの村」だって、
エタンソン谷に悪態のつきっぱなしでひどく感じが悪かった。
出版社が旅費を持って、ガイドまでつけてくれての大名旅行を
本にしているのも気に入らない。
それはともかくとして、この映画は映画館で見て正解であった。
残雪の立山連峰が余すところなくふんだんに出てくるだけでも
ご機嫌である。山岳映画にありがちなわざとらしい演出も
若い測量部員が岩場で無理して滑落するシーンを除けば、
さほど多くはなく合格である。
(南米ペルーアンデスで実際にあった遭難事故を題材にした
「死のクレヴァス」ほどのリアリティはないが・・・〕
創設間もない日本山岳会の小島烏水との初登頂争いが
本当にあったのか、あるいは新田次郎の創作だったのか、
史実がどうだったのかを後で調べてみたいものだが、
ドラマに色をつけるためには仕方がない展開であろう。
見栄と権威、権力の塊である帝国陸軍陸地測量部幹部将校たちと
技官・柴崎とのスタンスの違いもややわざとらしさはあるものの、
悪くはない。浅野忠信演ずる柴崎と、
山案内人・宇治長次郎(香川照之)の
淡々とした仕事ぶりとの対比がよいのである。登山家でないので、
山登りに情熱があるわけでもない。上司の命令でやむなく頂を
目指す柴崎と、それを助ける実直な山案内人という描かれ方は
納得がいく。
ほとんど全編にふんだんに雪山シーンが登場するのが
意外であったが、実は必然性があったことに気がついた。
地図作成のための測量で登山をするためには、積雪期こそチャンスなのである。道なき山に登頂するための最良の時期は
残雪期、すなわち、我々山スキーヤーと同じなのである。
三角測量に用いられた測角儀が意外にも軽量で
コンパクトに見えたのも意外であった。
1メートルの長さを決めるためにパリを通る子午線にそって、
地中海(バルセロナ)から北海(ダンケルク)までを7年間かけて測量したフランスの天文学者達は、70~80キロもの測定器を
ピレネーの峰峰まで運び上げているのである・・・
恵那山2009(1) ― 2009/07/18 16:13
恵那山・2009
2009年7月4日
メンバー:9名
コースタイム:
名古屋(本郷集合)7:00-黒井沢登山口(1140m)8:40-9:43(1460m地点)9:55-10:43野熊の池避難小屋(1710m)11:00-12:30湧き水(2060m)12:35-12:50頂上避難小屋(2160m)-13:00頂上(2190m)14:22-17:47黒井沢登山口
感想:
久しぶりの恵那山だった。もしかすると20年ぶりくらいかもしれない。名古屋の我が家の近くの丘の上からいつも見えるし、いろいろな山に登るたびに、その頂上から独特の台形の山容が遠望される。それでも実際に登るのは久しぶりである。黒井沢林道が大雨のたびに土砂崩れで閉鎖になることが多いためかもしれない。
この山は40年以上も前に名古屋に住み始めてはじめて登った記念すべき山である。長女の名前をもらった山でもある。その子供たちが小さい頃は何度となく登ったものであった。
今回は20代の若者が3人も参加してくれた。元の職場の野球の試合に誘われた時に成立した山登り計画であった。名工大のSさんも30代なので、いつものブナの木スキークラブの面々が相乗りしても平均年齢は約40歳である。
数日前までの天気予報は雨。傘と雨具両方の携行を連絡したが、当日の朝になってみると雲が切れ始め、登りだすころには晴れになってしまった。心がけが良いのは誰かな・・・などと言い合いながらの出発。若者は声にも張があって、全体が明るい雰囲気に包まれる。
野熊の池避難小屋は健在で、内部も清潔に保たれている。最後にこの山を登ったのが初冬(12月)で、この小屋で大宴会をやって翌朝膝までのラッセルをしながら登頂したことを思い出した。ダイヤモンドダストが見える冷たい日だった。
野熊の池を過ぎると、この山の本領が出てくる。登っても登っても頂上が遠い。カラマツの植林帯を登っていくのだが、道はそのまま頂上へ向かわずに、細長い頂陵の少し下方をアップダウンを繰り返しながら回り込んでいくのである。途中に湧き水が出ていて、これが実に冷たい。厳冬期の冷たさがそのまま凍土となって頂陵の芯の部分に残っているかのようで、10秒も手を入れるとしびれてしまう。
頂上避難小屋に着くと思いがけなく大勢の登山者がいた。我々が登った黒井沢ルートはほとんど人がいなかったのだが、どうも富士見台ルートから来る人が多いらしい。頂上には立派な展望台が建っていた。しかし、ガスのために何も見えない。用意してきたラーメンオジヤの製作にかかるがブユのような虫がうるさい。そこで狭い展望台に9年全員がぎゅう詰めに座って食べることにした。ラーメンにナメコとサヤインゲンを加えて、ご飯を入れるだけのシンプル料理なのであるが、山ではこれが実にうまいのである。
昼食をゆったりととった後、下山ものんびりペースで歩いた。なにしろ1年中で最も日が長い時期なので、余裕綽々である。結局3時間20分で降りたことになる。川上集落で岡崎方面に帰るKさんと別れて、中津川から高速に乗り、まだ十分に明るい名古屋に着いた。(了)
2009年7月4日
メンバー:9名
コースタイム:
名古屋(本郷集合)7:00-黒井沢登山口(1140m)8:40-9:43(1460m地点)9:55-10:43野熊の池避難小屋(1710m)11:00-12:30湧き水(2060m)12:35-12:50頂上避難小屋(2160m)-13:00頂上(2190m)14:22-17:47黒井沢登山口
感想:
久しぶりの恵那山だった。もしかすると20年ぶりくらいかもしれない。名古屋の我が家の近くの丘の上からいつも見えるし、いろいろな山に登るたびに、その頂上から独特の台形の山容が遠望される。それでも実際に登るのは久しぶりである。黒井沢林道が大雨のたびに土砂崩れで閉鎖になることが多いためかもしれない。
この山は40年以上も前に名古屋に住み始めてはじめて登った記念すべき山である。長女の名前をもらった山でもある。その子供たちが小さい頃は何度となく登ったものであった。
今回は20代の若者が3人も参加してくれた。元の職場の野球の試合に誘われた時に成立した山登り計画であった。名工大のSさんも30代なので、いつものブナの木スキークラブの面々が相乗りしても平均年齢は約40歳である。
数日前までの天気予報は雨。傘と雨具両方の携行を連絡したが、当日の朝になってみると雲が切れ始め、登りだすころには晴れになってしまった。心がけが良いのは誰かな・・・などと言い合いながらの出発。若者は声にも張があって、全体が明るい雰囲気に包まれる。
野熊の池避難小屋は健在で、内部も清潔に保たれている。最後にこの山を登ったのが初冬(12月)で、この小屋で大宴会をやって翌朝膝までのラッセルをしながら登頂したことを思い出した。ダイヤモンドダストが見える冷たい日だった。
野熊の池を過ぎると、この山の本領が出てくる。登っても登っても頂上が遠い。カラマツの植林帯を登っていくのだが、道はそのまま頂上へ向かわずに、細長い頂陵の少し下方をアップダウンを繰り返しながら回り込んでいくのである。途中に湧き水が出ていて、これが実に冷たい。厳冬期の冷たさがそのまま凍土となって頂陵の芯の部分に残っているかのようで、10秒も手を入れるとしびれてしまう。
頂上避難小屋に着くと思いがけなく大勢の登山者がいた。我々が登った黒井沢ルートはほとんど人がいなかったのだが、どうも富士見台ルートから来る人が多いらしい。頂上には立派な展望台が建っていた。しかし、ガスのために何も見えない。用意してきたラーメンオジヤの製作にかかるがブユのような虫がうるさい。そこで狭い展望台に9年全員がぎゅう詰めに座って食べることにした。ラーメンにナメコとサヤインゲンを加えて、ご飯を入れるだけのシンプル料理なのであるが、山ではこれが実にうまいのである。
昼食をゆったりととった後、下山ものんびりペースで歩いた。なにしろ1年中で最も日が長い時期なので、余裕綽々である。結局3時間20分で降りたことになる。川上集落で岡崎方面に帰るKさんと別れて、中津川から高速に乗り、まだ十分に明るい名古屋に着いた。(了)
恵那山・2009(2) ― 2009/07/18 16:17
ところで、前日に地図ケースから5万分の1「中津川」を取り出してみて驚いた。黒井沢ルートの登山道が載っていないのである。昭和30年(1955年)発行の地図(前のページの図)である。インターネットで国土地理院のサイトから2万5千分の1(上図)をダウンロードして持っていった。この頃は川上(かおれ)集落から直接に尾根に登って頂上を目指すルートが一般的だったのであって、黒井沢ルートは小生が始めて登った1968年の少し前に出来たのであろう。
これだけならよくある話であるが、二つの地図を見比べると黒井沢の地形が大きく違っているのである。頂上の三角点から真っ直ぐに南下する尾根にある1717mの三角点こそ共通しているが、その他の補助点の位置と標高が全く違っている。新しい地図では登山道がついている黒井沢右俣が左俣とほぼ同じ大きさで北上しているが、古い地図の右俣は短くて東進している。
映画「剣岳・点の記」を観ると、三角測量による地形図作成には根気と労力が相当にかかることがわかる。剣岳を含む立山連峰一帯の地図をつくるために、多くの山頂に三角点を埋め、その上に三角の櫓を立てなければならない。当時は登山道がない山頂が多かったから、測量の好適期は残雪期だったのである。剣岳山頂に4等三角点を立てるために技官・柴崎芳太郎は7月上旬の長次郎雪渓を登って頂に達している。
(設置したかったのは3等三角点であったが、十分な機材を運び上げることが出来ず、4等三角点になってしまい、正式な三角点設置日誌である「点の記」には記載されなかった。それを発掘して作品に仕上げ、世に知らしめたのが新田次郎だったと友人が教えてくれた。)
ところが、恵那山一帯は立山連峰ほどには雪が降らないし積もらない。おそらく測量隊は藪をこぎながら機材を運び上げたに違いない。うまく見通しのきかない谷は想像で等高線を引いた場合もあったであろう。そうした誤りは徐々に訂正されていったはずであるが、1955年発行の地図のはその名残が残っていたものと思われる。今では、航空測量でいとも簡単に訂正ができるから、最新の地図が正しいことは言うまでもない。
これだけならよくある話であるが、二つの地図を見比べると黒井沢の地形が大きく違っているのである。頂上の三角点から真っ直ぐに南下する尾根にある1717mの三角点こそ共通しているが、その他の補助点の位置と標高が全く違っている。新しい地図では登山道がついている黒井沢右俣が左俣とほぼ同じ大きさで北上しているが、古い地図の右俣は短くて東進している。
映画「剣岳・点の記」を観ると、三角測量による地形図作成には根気と労力が相当にかかることがわかる。剣岳を含む立山連峰一帯の地図をつくるために、多くの山頂に三角点を埋め、その上に三角の櫓を立てなければならない。当時は登山道がない山頂が多かったから、測量の好適期は残雪期だったのである。剣岳山頂に4等三角点を立てるために技官・柴崎芳太郎は7月上旬の長次郎雪渓を登って頂に達している。
(設置したかったのは3等三角点であったが、十分な機材を運び上げることが出来ず、4等三角点になってしまい、正式な三角点設置日誌である「点の記」には記載されなかった。それを発掘して作品に仕上げ、世に知らしめたのが新田次郎だったと友人が教えてくれた。)
ところが、恵那山一帯は立山連峰ほどには雪が降らないし積もらない。おそらく測量隊は藪をこぎながら機材を運び上げたに違いない。うまく見通しのきかない谷は想像で等高線を引いた場合もあったであろう。そうした誤りは徐々に訂正されていったはずであるが、1955年発行の地図のはその名残が残っていたものと思われる。今では、航空測量でいとも簡単に訂正ができるから、最新の地図が正しいことは言うまでもない。
トムラウシ夏山大量遭難 ― 2009/07/19 15:46
7月の大雪山系で、合計10名もの凍死者が出た。
低気圧通過にともなう強い風雨と気温低下が招いた結果だという。
過去にも、6月の雨の白馬大雪渓で凍死するなどの遭難例があり、
夏でも凍死がありうることはすでに常識でもある。
おそらくは、夏の高温向けに体を馴らした後だからこそ、
冬ならどうということもない低温で死にいたるのであろう。
筆者などは、秋山が嫌いである。
夏向けの体のままで低温にさらされるので、
とにかく寒いのである。
旅行会社が主催する中高年向けの登山ツアーが人気を呼んでいる。
お金とヒマがある人々が山登りに目覚め、
100名山を札所めぐりのお遍路さんのようにたずねて歩くのであろう。
別に悪いことではないが、
何か危なっかしいものを感じていたのは筆者だけではないであろう。
そもそも、山歩きの力量が読めない客を大量に連れて登山をすること自体がおそろしい。まして、そこには旅行社のスケジュール優占のポリシーが働いている。
客の多くも、団塊世代で頑張ることにかけては人後に落ちない、
引き返すことを知らないタイプである。
スイスやフランスの山岳ガイドは権威性が高く、
山岳学校などの養成過程も厳しいカリキュラムと試験があって、
さらに、長い歴史がある。
天候が悪化したり、客の力量が足りないと判断すれば、
遠慮会釈なく引き返してしまう。
この制度を利用して、
客の足下を見るような悪徳ガイドもいるということである。
一方日本の場合は、ガイド制度そのものが未整備であり、
ガイドの権威性と自信も極めて低い状態である。
雇い主である旅行社と客の意思に振り回されることが考えられる。
低気圧通過にともなう強い風雨と気温低下が招いた結果だという。
過去にも、6月の雨の白馬大雪渓で凍死するなどの遭難例があり、
夏でも凍死がありうることはすでに常識でもある。
おそらくは、夏の高温向けに体を馴らした後だからこそ、
冬ならどうということもない低温で死にいたるのであろう。
筆者などは、秋山が嫌いである。
夏向けの体のままで低温にさらされるので、
とにかく寒いのである。
旅行会社が主催する中高年向けの登山ツアーが人気を呼んでいる。
お金とヒマがある人々が山登りに目覚め、
100名山を札所めぐりのお遍路さんのようにたずねて歩くのであろう。
別に悪いことではないが、
何か危なっかしいものを感じていたのは筆者だけではないであろう。
そもそも、山歩きの力量が読めない客を大量に連れて登山をすること自体がおそろしい。まして、そこには旅行社のスケジュール優占のポリシーが働いている。
客の多くも、団塊世代で頑張ることにかけては人後に落ちない、
引き返すことを知らないタイプである。
スイスやフランスの山岳ガイドは権威性が高く、
山岳学校などの養成過程も厳しいカリキュラムと試験があって、
さらに、長い歴史がある。
天候が悪化したり、客の力量が足りないと判断すれば、
遠慮会釈なく引き返してしまう。
この制度を利用して、
客の足下を見るような悪徳ガイドもいるということである。
一方日本の場合は、ガイド制度そのものが未整備であり、
ガイドの権威性と自信も極めて低い状態である。
雇い主である旅行社と客の意思に振り回されることが考えられる。
トムラウシ夏山大量遭難(2) ― 2009/07/19 16:13
今回の遭難パーティーのうち、
大量8名もの死者を出したアミューズとラベル社は老舗の
山岳ツアー会社である。
阪急トラベルや交通公社とは違う。
山岳部や山岳会あがりの人たちが興した会社のはずである。
そういう意味では、今回の事件は意外でもあった。
しかし、新聞で報道されているガイドの判断や挙動を見ると、
とても老舗の山岳ツアー会社とは思えないひどい対応である。
創設当時の志が商業主義で捻じ曲がった、
あるいは、会社が肥大化する中で山との付き合い方を
忘れてしまったとしか思えない。
新聞からは読み取れないが、
この時期、かなりのパーティーが同じ山域に入山していたはずである。
それらの多くは、無事に下山している。
そのまま先に進んだのか、あるいは、引きかえしたのか、
はたまた、避難小屋で停滞したのか、様々な判断があったであろうが、
これら無事に下山した人々の数と行動を知りたいものである。
大量8名もの死者を出したアミューズとラベル社は老舗の
山岳ツアー会社である。
阪急トラベルや交通公社とは違う。
山岳部や山岳会あがりの人たちが興した会社のはずである。
そういう意味では、今回の事件は意外でもあった。
しかし、新聞で報道されているガイドの判断や挙動を見ると、
とても老舗の山岳ツアー会社とは思えないひどい対応である。
創設当時の志が商業主義で捻じ曲がった、
あるいは、会社が肥大化する中で山との付き合い方を
忘れてしまったとしか思えない。
新聞からは読み取れないが、
この時期、かなりのパーティーが同じ山域に入山していたはずである。
それらの多くは、無事に下山している。
そのまま先に進んだのか、あるいは、引きかえしたのか、
はたまた、避難小屋で停滞したのか、様々な判断があったであろうが、
これら無事に下山した人々の数と行動を知りたいものである。
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