臓器移植問題について2006/08/11 22:32

<臓器移植問題と環境問題との共通点>

 
  2005年12月31日付中日新聞「中国での死刑囚を臓器提供者とした移植の急増、100人超の日本人も訪中して移植を受けている」報道についてあるMLに投稿しました。しかし、大きな石を投げ込んだつもりだったのですが、思ったほどの大きな波紋は起きませんでした。ただ、「臓器移植の問題と環境問題とが本質的に同じ問題を含んでいる」と書いた理由について少しだけ述べることにします。

1. オーバーラン
 我々人類の活動エネルギーが地球という大きいけれども限りがある入れ物を揺るがし、オーバーフローしてしまうところまできてしまいました。そのことが様々なグローバルな環境異変を引き起こしていることについては多くの人々が理解していることだと思います。これを空間的オーバーランと呼ぶことにすれば、我々はもうひとつのオーバーランを犯しているのではないかと思うのです。それを知のオーバーラン(ないしは暴走)と呼ぶことにします。
 原子核からエネルギーを取り出す技術である核技術は爆弾や発電に利用されていますが、人類がコントロール出来ない部分を持っています。すなわち、ひとたび反応系が暴走した時に止められない、また、暴走でまき散らされた放射能を回収したり無毒化したりすることが出来ないのです。「失敗は成功の母」という近代科学技術の発展を支えてきた基本的な方法論が通じなくなっているのです。
 同じことが、遺伝子組み換え技術や臓器移植技術あるいはクローン技術についても内在していると思います。巨大化した近代科学技術は、失敗した時すなわち事故が起きた時に、それ自身の力で事態を収拾することが出来ない、あるいは、失敗の許されない技術を操作するところまで進んでしまったのです。しかも、視界は十分に開かれているわけではなく、不確実性をはらんでいます。それをリスク評価、リスクコントロールで乗り切れるという人たちがなおも暴走を続けているわけですが、リスク評価そのものが極めて危うい方法論であることを我々は今一度確認しなければならないのだと思います。
 
2. 不公平
 この問題では、お金持ちの外国人が優先的に移植手術を受けていると報道されていましたが、この種の不公平、あるいは不条理は環境問題でもたくさん見てきました。例えば、四日市公害が激しく起きているころ、コンビナートの社員は工場からはなれて空気のきれいな山の手に住み、貧しい庶民は突然やってきた工場の目と鼻の先に住んでいて、大量の亜硫酸ガスを吸わされ、喘息になったのです。インド・ボパールでユニオンカーバイド社が事故で毒ガスを漏洩したときに犠牲になったのは数千人の路上生活者でした。
 皮肉なことに、日本の環境技術は世界でもトップクラスだとか、それを輸出して貢献する(要するに金儲けするということですが)とか、環境関連法制度の水準が高いとかいうことがよく言われますが、それは企業や政府が進んでやったからではないのです。公害病犠牲者たちの生命を犠牲にし、被害住民たちのつらい闘いがあったから進んだことなのです。
 マレーシア・ブキメラ村で三菱化成の子会社ARE(アジアレアアース)社は、ブラウン管やマイクロモーターなどに使われる希土を精製していたのですが、放射能を持つトリウムを含む廃棄物を野積みして、村人に白血病や様々な先天性疾患被害を与えました。
 フィリピン・レイテ島ではパサール(PASAR)銅精錬工場が豊かな海を死の海に変え、出来上がった純銅の90%が日本へ運ばれているのです。
 汚染を引き起こした者がぬくぬくと肥え太り、その生産活動からなんの利益も受けない貧しい住民の上に被害が集中するのです。地球温暖化の被害は、温暖化ガスの25%を排出しながら、温暖化防止枠組み条約に背を向け続けるアメリカではなく、セーシェルやモルジブなどの島嶼国で起きるといわれています。大型ハリケーン「カトリーナ」の被害も、貧しい黒人たちを激しく襲いました。
 
3. 民主主義
 先進国で死刑制度がなくならないのは、アメリカと日本だけだといわれています。その日本でも、死刑が執行されることはそれほど多くはありません。一方、中国では年間3500人超の死刑が執行されています。しかも、裁判の期間もとても短くて、あっという間に殺されてしまいます。人民の基本的人権が極めて低くしか認められていないのです。その中国で死刑囚の体が臓器の提供源としてフル稼働しているというのは実に恐ろしいことです。
 すでに述べたレイテ島の汚染事例でも、公害反対住民運動に参加した人々には2重の暴力が加えられます。企業の味方しかしない政府や地方行政の圧力と、会社が雇った武装した暴力集団の存在が常に市民・住民を脅迫しているのです。
 臓器移植については、中近東などで発生した難民の子供たちが誘拐され、臓器移植の材料にされているのではないかといううわさもあります。

4. お金の論理と倫理
 帚木蓬生「臓器農場」という小説があります。妊娠何週間目かである種の注射をすると無脳症児が生まれることを利用して、ある病院の秘密病室で小児用の移植臓器を培養されるという事件を推理小説仕立てで書いたものです。これは小説ですが、この種のことが現実に起きる可能性は低くはないというところまで来ていると思います。
 なにしろ、フィリピンまで腎臓を買い行くツアーがあり、中国へ死刑囚の臓器を買いに行った人たちが出ているのです。中日の報道には、臓器移植ネットワークの代表が「身内に死にそうな人がいたら、倫理の問題なんか言ってはいられない」と述べています。個別の事例を見れば、死にそうな人の命が助かるのは良いことです。それが社会のシステムとして動きだした時には、お金の論理すなわち経済の論理が暴走し、生命倫理を吹き飛ばしてしまうのです。
 環境問題でも、環境倫理に最後の望みをかけるしかないという局面が多々ありますが、時として倫理は経済の論理に負けることがあります。ISO17000など、環境監査システムが環境倫理に片足を乗せているわけですが、もう一方の足はちゃんと経済の論理の上に乗っかっています。我々は、この危ういバランスの上で綱渡りをしながら進んでいくしかないのでしょう。