生物多様性なごや戦略パブコメ2010/03/02 20:57

戦略に描かれた100年後の名古屋
緑の回廊が出来た名古屋の街、右下に顔をのぞかせているのは
半田のごんぎつねである。
ごんぎつねが名古屋を通って、知多半島と庄内川上流域を行き来することが出来る回廊をつくろうというアイデア(?・・・むしろロマン)は、
2年前に小生が発表したものである。


パブコメの締切が本日の12時。
朝からかかってようやく書きあげて、たった今送信したばかりでる。
むなしい結果に終わることが多いパブコメであるが、
この2年間余り元手をかけて汗を流してきたテーマであるだけに、
書かないわけにはいかない。

読んだみなさんから、
感想などを送っていただければ幸いである。



生物多様性なごや戦略(案)に関する意見

<意見>
 名古屋都市圏は3大都市圏で唯一まともな自然系博物館を持っていない。このことに象徴されるように、生物多様性関連諸施策において大きく立ち遅れている地域である。その名古屋圏が、生物多様性条約締約国会議COP10開催地として名乗りを上げた。開催地として恥ずかしくないだけの生物多様性保全に関する施策展開をするには、遅れているだけに思い切ったパラダイムの転換が必要である。すでに愛知県は県戦略を策定しているが、残念なことに絵空事に終始し、貧弱な骨格に政策実現のための担保が一切ない耳触りのよい美辞麗句が貼りついているという印象である。名古屋市には決してこういうことのない、実効性が高く、生物多様性に関する諸施策が確実に実現していく流れを保証した具体的かつ強力な戦略の策定を強く期待している。
 こうした期待をこめて、筆者は名古屋市生物多様性センター設置を求める提言活動や研究活動を行ってきた。また、2008年度から開始された市民と名古屋市との協働事業である「名古屋ため池生き物いきいき計画事業」にも参加して、汗を流してきた。その立場から本戦略案に関する意見を述べる。

1. 全体の印象
戦略としてはやや型破りの構成と内容になっていて、やや雑然とした印象であるが、盛り込むべき基本的な要素が網羅されているという意味では評価できる。例えば、世界中および伊勢湾流域の生物多様性に依存している都市の在り方の現実と将来への課題が明示されている。生物多様性を大きく損なってきたのは、我々自身が享受している快適で豊かな暮らしを支えるために進められた開発行為であることも示唆されている。この点において、国家戦略や県戦略より1歩優れている。導入部で「ごんきつね」の旅が登場するのもロマンがあってよい(最初のアイデアは筆者だったような気がするが…)。
しかし、抽象的、羅列的な印象を否定出来ないのは、ビジョンの実効性、実行可能性を担保する具体的な施策の提示に欠けているからである。もう一歩具体的に踏み込み、施策の権能まで言及した記述が求められる。

2. 伊勢湾流域とりわけ木曽川上流域との連携について
上流域の疲弊の現実と原因についての記述が全く不足している(例えば、36ページから39ページ)。そもそも上流域が疲弊したのは、高度経済成長期に若い働き手を下流都市圏が吸い寄せたからである。過疎と高齢化の現状は30年以上も前に都市圏の発展に連動してスタートしたのである。しかも、その後のWTOにつながる自由貿易体制下で工業製品(具体的にはトヨタなどの車など)を輸出するために、国内農業を犠牲にして外国から安い食料や木材を洪水のように輸入する政策を選択してきたのである。さらに、工業製品製造に伴って発生した産業廃棄物は上流域あるいは沿岸域に持ち込まれ、様々な汚染を引き起こしてきているのである。しかも、工業生産に伴う利益にかかる税金の主要部分は都市域に集中している。ダム建設においても、上流域の自然環境を破壊し、住民とその文化や歴史を湖底に沈めてきた。この上流域にとっての踏んだり蹴ったり状態、あるいは、割り勘負け状態を明確に記述するべきであり、そのことによって都市住民の上流域への責任感の啓発を図るべきである。さらには、具体的な上流域支援策に踏み込むべきである。28ページの江戸時代における上流域からもたらされた恩恵についての記述でも、尾張藩による過酷な支配があったということを述べて、上流域の生態系サービスが下流域のエゴイズムに支配されてきた歴史を明らかにするべきであるし、その苛酷な時代でさえも尾張藩が木曽上流域に米を1万俵送っていたという故事を示してもいいのではないだろうか。
57ページから61ページでも上下流のつながりや都市の責任についての記述があるが、物足りない。上流域からの手紙や高坂氏の文章も、情緒的に過ぎて具体的に都市住民の責任への言及が不足している。そのために、76ページで語られる100年後の上流域と下流域との関係が、現状とさして変わらない自然学習や農業体験を軸とした上下流交流と上流域資源の活用としか書けていないのである。下流域の責任としての上流域支援は義務と責任からくると同時に、下流域自身の生存と存続にかかわる問題である。すでに江戸末期に明治用水を構想した都築弥厚(つづきやこう)に上流域支援の思想があったことを例示するなどしつつ、矢作川水系などで始まっている水源基金、東京都や横浜市が保有する広大な水源林などの先進事例を示し、木曽川上流域への具体的な支援制度の提示をするべきである。さらに、「地産地消(82ページなど)」「国産材利用(60ページや81ページ)」よりも踏み込んで「流域内自給」の旗を高く掲げ、木曽流域材あるいは伊勢湾流域材の認証と流通支援、さらには、外国産材や農産物との価格ギャップを消費者と行政が折半して負担するような未来図を提示するべきではないだろうか。
10年前に岐阜県御嵩町民は下流域500万人の飲み水の安全性を心配して、産業廃棄物処分場計画を全国初の住民投票によって拒否した。30億円もの寄付金の誘惑や暴力による脅しにも屈しない志のある決断であった。その御嵩町民の水道料金は名古屋市民の2倍以上なのである。この不条理と御嵩町民の高い志を名古屋市民の多くは知らない。このことを戦略に書き込んで、下流域に配慮する上流域を下流域は尊敬すべきこと、またそれに見合ったお返し、あるいは責任の果たしかたがあることを提示するべきである。

3. 生物多様性センターあるいは生物多様性保全のための拠点施設について
 名古屋に生物多様性センターを

序文で述べたように、名古屋都市圏は自然系博物館を持っていない。博物館といえば教育委員会管轄になってしまうという名古屋市の縦割り行政の矛盾をすぐには解決できないだろうということで、私を含む有志グループは、すでに名古屋市環境局長あてに「名古屋市生物多様性センター」の設置を提言して文章を送り、当時の環境局長(現生物多様性担当顧問)との2度にわたる会談も持ってきた。河村新市長にも要望書を持って口頭説明も行っている。以下の文章は2009年8月18日付中日新聞に掲載された筆者による「生物多様性センター創設を」の原稿である。

―生物種が猛烈な勢いで絶滅していることに人類が気がついたのはごく最近のことである。熱帯生物学者ノーマン・マイアースが、著書「沈みゆく箱舟」で二十世紀の最後の二十五年間では年間四万種が絶滅するだろうと述べたのが一九八九年であった。
地球上に生息する生物種は五百~千万種、絶滅速度は恐竜時代には千年に一種、二十世紀に入って年間一種に加速したと考えられている。われわれの文明の破壊力のものすごさに、あらためてりつぜんとする。
生物多様性の研究や保全策の基盤となるのは生態学や動植物分類学などである。これらの学問は近代科学の目覚ましい発展から取り残されてきた分野でもある。観測対象が数値化しにくいのである。
地面をはい回りながら一種ずつ標本を集めるような地道な研究が欠かせない。少数の専門家より、むしろ多数の市民研究者が貢献できる分野でもある。
地道な研究を支え、標本を収蔵する自然史(誌)博物館なども必須の施設である。地球上に生息する生物種のうち、同定されたものは百六十万種にすぎない。急速な絶滅を前にして調査研究と対策は「日暮れて道遠し」なのである。
COP10が二〇一〇年に開催される名古屋市に、自然史博物館はない。愛知県内を見渡しても、わずかに豊橋市立自然史博物館があるだけである。環境万博を開催した愛知県だが、自然環境系のインフラは貧困である。
基礎的な研究は国立の機関に任せておけばよいという風潮がある。しかし、愛知県あるいは東海地方は、周伊勢湾要素植物群など地域固有の生物種の宝庫である。水谷豊文や伊藤圭介など著名な本草学者を輩出した地域でもある。
ところが、市井の植物学者であった井波一雄さんの日本有数といわれた植物標本は、県内に引き取り先がなく千葉県立中央博物館に収蔵された。絶滅危惧種の調査などには、多くの市民研究者の業績が貢献しているが、その研究者が物故すると貴重な標本類の多くは四散してゴミになってしまう。
昨年八月、こうした状況を憂慮する大学や市井の研究者、自然環境系非政府組織(NGO)メンバーなどが集まって、名古屋市に「名古屋市生物多様性センター」の創設を求める提言を行った。
標本類を収蔵するバックヤードを重視し、市民研究者が専任研究員とともに共同研究し、顕微鏡などの設備を自由に使える開放的な研究施設を目指す内容となっている。
COP10は万博と違ってイベントではない。世界中から集まる政治家、環境系の官僚やNGOスタッフに地域固有の生物種の調査研究と、その保全策の実践事例を見せることが大切である。
名古屋市は現在、生物多様性なごや戦略を策定中である。すでに「国家戦略」が策定されているが、具体的に生物多様性を守るものとはなっていない。まさに画に描いたもちである。この轍を踏まず、生物種の絶滅速度を顕著に減少させる施策の第一歩として、多様性センター創設を戦略の中に位置づけてもらいたい。愛知県には、本格的な自然史(誌)博物館建設を望みたい。―

先日の生物多様性センター勉強会(戦略案95ページ)で愛知教育大学の芹沢教授が、旧下山村に計画されたトヨタ自動車のテストコース建設計画地で絶滅危惧種ミゾゴイが発見されたことについて、愛知県はこれまで生物多様性に関する地域情報の収集と集積を怠ってきたツケであると述べた。また、井波一雄さんの植物標本が千葉県立中央博物館で懸命に整理されていることにふれて、愛知県は千葉県民の税金数億円分をタダ乗りしていると述べた。
まさに自然史博物館あるいは生物多様性センターは、生物多様性保全施策の要となる拠点施設であり、名古屋都市圏及び伊勢湾流域圏の持続可能な発展に欠くことのできない施設である。これまでこの地域の動植物情報や標本類を収集、集積してきた市井の研究者が次々と物故する中で、貴重な情報や標本類が四散しつつある。ゴミとなって捨てられる場合も少なくない。まさに待ったなしの危機的状況なのである。これまで愛知県や名古屋市は、レッドデータブックなどの編纂にあたって、これら研究者たちの知と汗の結晶をタダ食いしてきたという経過もある。しかも、これらの研究者たちの後継者は育っていない。
いまこそ、生物多様性条約締約国会議COP10開催を契機として、この危機を回避し、なんとか知の遺産を安全な標本庫に受け止めるとともに、市井の研究者を育てる場をつくらなければならない。一般市民の幅広い教育の場、さらにそこから生まれてくるアマチュア研究者のレベルアップ、さらにはプロの研究者と肩を並べる市井の研究者の実験室であり、専門の研究者との共同研究の場でもある拠点施設が求められているのである。まさに箱モノとしての生物多様性センターが必要なのである。
一昨年末、ロンドンを訪問し、大英博物館、自然史博物館、科学博物館などを10日間にわたって視察した。膨大な資料が巨大な空間に収蔵されていて、なおかつ今なお収集の努力が重ねられている。そして、これらの収蔵品は自国民のみならず外国人にも等しく無料で公開されているのである。まさに博物館は国家の基盤、社会の基盤施設として位置付けられていて、サッチャー政権時の財政改革の嵐にも動じなかったのである。
 
以上のような観点から本戦略案を見ると、はなはだ心もとない。戦略1方針2(80ページ)でようやく多様な主体による調査研究体制の整備がうたわれ、収集した情報の適切な管理運用するための体制づくりが掲げられているものの、この文言から現物の箱モノとしての標本庫を有する生物多様性センターをイメージすることは難しい。
戦略4方針2(86ページ)で、自然共生まちづくりの拠点となる「情報交流ネットワーク」づくりが掲げられ、再び多様な主体による生物調査・環境調査データの収集、収集情報のデータベース化、データ標本の保管と公開、市民活動を支え多様な主体のネットワーク化を支える拠点を行政内部の連携強化と市民活動や専門機関との連携強化でサポートしていく仕組みをつくるとしている。しかし、これを読む者は、ここで書かれている拠点やネットワークがヴァーチャルなものなのか、具体的な箱モノ施設であるのかを判断することは難しい。
96ページにいたって、始めて具体的に「生物多様性センター」の文言が現れるが、これは名古屋市立大学に遺伝子標本の収集とそのDNA情報の解析をする施設が出来るということであって、私たちが待ち望んできた施設ではなさそうである。
自然史博物館のような施設は、準備室の発足から開館まで最低でも10年間を要する。この時点で具体的な準備室発足とスタッフ(学芸員ないしは研究員)採用が約束されなければ画に描いたモチに終わる危惧が極めて大きい。「拠点としてのネットワーク」ではなく、ネットワークの中心となる拠点としての生物多様性センター」創設を本戦略で約束することを強く望みたい。
前述した「名古屋ため池生き物いきいき計画事業」(90ページ)でもかなりの量の標本が集まっている。専門家による指導によって作成された標本である。これら標本類は現在名古屋市役所の会議室に保管されている。このままでは早晩虫食いの標的となってしまうであろう。この調査に参加した多くの市民、貴重な時間とエネルギーを割いて協力してきた専門家集団の想い、志が無に帰してはならないだろう。この地域には、過去50年間以上にわたる市井の研究者による貴重な標本群が、同様の危機にひんしている。
輝かしい成果を上げてきた近代科学の発展と比べて、カビが生えているかのごとく思われてきた分類学が、今新しく脚光を浴びつつある。遺伝子解析や走査型電子顕微鏡の発達によって、分類の枠組みががらがらと音たてて変わり、生命に関する進化の研究や病気の解明、新薬の開発などでもベースとなる標本と正確な同定能力が求められる新しい時代が到来したのである。まさに社会基盤として維持され発展してきた博物館が、新しい時代に新しい期待をかけられつつあるのである。まさに生物多様性が国際政治の重要な柱として表舞台に登場してきたことと無縁ではない。
すぐに効率を求め、基礎的・基盤的な仕組みがないがしろにされる近視眼的なご時勢ではあるが、志高く100年後を見据えてこの街・名古屋を創っていきたいものである。

4. その他
 戦略1方針1(79ページ)では、樹林・農地などまとまりのある生息・生育地の保全がうたわれ、方針3(80ページ)では、土・水・緑をつなぐ回廊づくりが掲げられている。しかし、この文言が開発系部局あるいは民間開発の圧力をどのようにコントロールできるのだろうか。すでに生物多様性国家戦略が国土交通省をはじめとする開発系部局によるすさまじい環境破壊、多様性潰廃をもたらした開発に何の歯止めもかけられなかったという歴史を私たちは知っている。美しい文言は、それを実効性ある力に変えるための担保、すなわち権能、権限の裏付けがなければ絵に描いたモチにすぎない。このことについて、何らかの具体的な約束が盛り込まれるべきである。

                                  以上

ガイド登山遭難2010/03/04 10:35

昨日(3/3)の朝日新聞の記事である

正月に寺地山で遭難してヘリで救助されたという新聞報道は知っていたが、その詳しい事情については初めて知った。
このルートは、5年ほど前の5月連休に入山し、
北の股岳を経て太郎衛平の小屋に入り、翌日黒部五郎岳、三俣蓮華岳を経て双六小屋までの縦走に成功した懐かしいコースである。
この山域は豪雪地帯であるだけに、厳冬期は厳しい。
この時期にここに入ろうというのだからよほど技量と体力に自信があったのであろうが、最後に携帯電話でヘリを呼ばざるを得なかったのは情けない。
頭までもぐったとあるが、彼らは輪かんじきあるいはスノーシューだったのだろうか。これがスキ-ならだいぶ違ったであろう。日本の近代登山黎明期には、北アルプスで盛んにスキーが使われている。それが、正統派の山屋さんはあまりスキーを使わなくなってきているような気がする。それに代わって、スキー重視の山スキー屋が、結構難しい山域に入ってきている。
道具としてのスキーの有効性がもっと見直されていいのではないだろうか。
ガイド登山の問題点については、すでにトムラウシ山遭難事件で考察したので詳述はしないが、日本のガイドのステータスの低さ、その原因かもしれない技量への信頼度の低さ、養成と認証のシステムの脆弱性などを指摘したい。また、ついてまわりのガイド登山では山の楽しみが半減するし、いつまでたっても技量が向上しないことを再度言っておきたい。

乗鞍岳2010・3月2010/03/28 19:42

時:2010年3月20~22日
メンバー:ブナの木スキークラブ7名

3/20(晴れ) 名古屋7:00-10:50乗鞍高原スキー場(休暇村)11:20-11:30三本滝レストハウス(昼食)12:10-12:15かもしかゲレンデ最上端(1985m)12:30-位ヶ原台地(2450m)14:20-14:35位ヶ原山荘(2350m)

土岐インターで7時の待ち合わせ予定が、いくつかのハプニングで40分ほど遅れてしまったが、スキー場到着は予定通り。一番上のかもしかゲレンデに上がってみると強風でリフトが止まっていた。スキーをザックにくくりつけて5人組パーティーがつぼ足で上がっていく。ところがラッキーなことに、三本滝レストランで昼食を食べているうちに運転が再開されたので、我々は電気の力(お金の力か?)でかもしかゲレンデ最上端まで運んでもらった。そこでシールを貼って、正面の壁を登りきったところでつぼ足組に追いついてしまった。
気温が高く、風もほとんどない。鋭い剣が峰も春霞にかすんで柔らかな表情をみせている。天気予報は明日から崩れると予想している。まさに荒天の前のもっとも穏やかな陽気である。切り開かれたツァーコースを順調に登り、やがて位ヶ原台地直下の壁に出た。肩の小屋へのルートはこの壁の正面を登るのであるが、われわれは右側に回り込むように登った。登りきったところをさらに右手へ進むと、眼下に位ヶ原山荘が見下ろす地点に出た。足下は落差100mの胸のすくような無立木の急斜面である。その縁を100mほど進んで、岳樺の林の中に滑り込んでみた。残念ながら昼の好天気で融けた雪は最中状に凍り始めていてエッジが引っ掛かる。快調とは言いかねたがまずまず楽しく位ヶ原山荘に滑り込んだ。
 小屋の中は温かく、ロビーのストーブの周りにはコタツまである。夕食はシカ肉の鍋。なかなかのご馳走である。保存食料は前年の秋に車で運びこむが、生鮮食品はボッカで上げているそうである。明日の荒天予報のおかげでキャンセルが続出したとのことで、宿泊者は我々を入れて、20人ほどであった。今年は2月6日から営業を開始したとのこと、暮と正月にも営業するそうである。これから定番にしてもいいかもしれない。

乗鞍岳2010・3月(2)2010/03/28 19:48

位ヶ原を目指して進むブナの木スキークラブの面々

なかなかいいペースで登る。
冬季は初めての位ヶ原山荘入りなので、
どこから入ろうかとあれこれ考えながら進む。
小屋のブログによれば、標識6番から入ると書いてあったが、
トレースが全くない。
上天気なので、位ヶ原台地に乗ってから滑り降りることにした。

乗鞍岳2010・3月(3)2010/03/28 19:54

位ヶ原への道

好天に誘われて登る人が多い
シールなしで、担いで登っているパーティーもいる。
しかも足下は登山靴。
ザックの中にはスキー靴が入っているらしい。