津波の跡、百人一首にも2020/02/15 11:00

百人一首の清原元輔「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波越さじとは」の末の松山が多賀城にあることは知っていたが、歌の意味を考えたことはなかった。ボクが生まれた松島町から仙石線に乗って仙台に行く時に通過する駅である。多賀城は坂上田村麻呂が東北鎮守府として構築した城だとされている。ちなみに元輔は清少納言の父である。
東京新聞2020年2月15日号は、「古文書と災害」シーリーズの第1回目として、貞観地震(869年)を扱っている。この地震、については、平安時代にまとめられた「日本三代実録」(858~887年の出来事を記録。菅原道真も編集に参加)に記録されている。震度6と推定される地震のあと、津波は内陸部まで侵入し、死者は1000人を超えたという。この時、末の松山の手前で津波が止まったことが、都人の歌に詠みこまれていたのである。
産業技術総合研究所などの調査で、貞観地震の津波が運んだ砂の層が内陸部に確認されていて、そこから得られた津波侵入エリアと、今回の東日本大震災での津波侵入エリアは、図のようにぴったりと重なっていることが確認されたのである。
この貞観地震について、検討会委員が指摘したにもかかわらず、国と東電が無視していたことが明らかになっている。

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