環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(3)2007/01/25 22:58

8. リスク評価における問題点
  
1) 低用量外挿の問題
 化学物質の急性毒性の評価は動物実験で行われてきた。例えば、いくつかの濃度について100匹ずつのネズミを用いて投与試験を行い、得られたS字型曲線からLD50(50匹のネズミが死ぬ濃度)やL0(この濃度以下なら1匹も死なない濃度)が求められる。L0に通例は安全率10分の1を乗じて、それ以下なら安全(すなわちリスクゼロ)として管理を行えばよい。
しかし、慢性毒性のある化学物質の毒性評価は難しい。発病するまでの潜伏期間が長いうえに、極低濃度でもたらされる毒性をつかまえなければならない。しかし、実験手法は急性毒性の場合と同じ動物実験しかない。ネズミの実験を例にとれば、生涯リスクが10-5、すなわち10万人に一人が死ぬ投与量を求めようとすれば、1000万匹のネズミのうち100匹が死ぬ投与量を求めなけらばならないことになる。そんなことは不可能である。そこで、ネズミの数は100匹(ないしは50匹)のままで、投与量を1万~10万倍にして実験を行い、得られた結果を実験投与量の1万~10万分の1のところまで外挿するのである。しかも、設定される投与量も4種類程度に限定されるから、用量作用曲線のプロットは4点程度ということになる。
左図2)に示したように、外挿にあたって用いる数学モデルによって、得られる結果は大きく違ってくる。最も厳しい評価となるワンヒットモデルとは、直線外挿モデルである。アメリカEPAが用いているのは、これをわずかに変形した線形多段階モデルである。これらのモデルと、最も甘い評価となる対数正規モデルとでは、得られる結果に10-5において約1万倍の差がある。すなわち、リスク評価の危うさの第1は、極めて高濃度で行われた実験結果を、実証科学の領域をはずれた実に大胆な低用量外挿をしなければならないところに内在しているのである。

2) 不確実性係数の問題
 急性毒性の評価で安全係数と呼ばれていたファクターが、リスク評価分野では不確実性係数と呼ばれている。不確実性が発生するのは、前項で示したような低用量外挿のプロセスだけではない。種間差から来るものも大きい。すなわち、実験動物と人間との毒物感受性の差である。ダイオキシンの急性毒性について調べられた表を見ると、ハムスターとモルモットで1万倍の差があるというデータがある。これは特別に極端なケースではあるが、リスク評価で用いられている不確実性係数は何故か10以内におさめられている。
 個体差からも大きな不確実性がもたらされる。急性毒性についての毒物感受性の個体差は10~100倍程度であるが、リスク評価ではやはり10以内におさめられている。前掲ハンドブック5)の238頁で蒲生昌志は、増山18)を引用して、様々な薬物の体内半減期の個人差が0.1~0.2の範囲に収まること、母乳中PCB濃度の個人差が約0.3であることなどから、人間の個体差に関する不確実性係数の妥当性を述べている。ここで用いられている個人差は常用対数値の標準偏差(logGSDすなわち幾何標準偏差の対数)である。それが0.3であるということは、対数正規分布を仮定したとき分布の5%と95%ile値の比が10、1%と99%ile値の比は25となる。ということは、個体差に起因する不確実係数を10にした時に、分布の5%より外側は無視されることになるのではないだろうか。
 例えば化学物質過敏症などの高感受性群については不確実性係数10では対応し切れていないことは明らかである。高感受性群について蒲生は、それが少数であれば特別に取り扱うことは困難であり、数が多ければ別個にリスク評価しなければならないだろうとし、アメリカの食品品質保護法では、乳幼児に対して特別にさらに10倍の安全係数を適用することが提案されていることを紹介している。この文脈からすると、化学物質過敏症などの脆弱性少数者は切り捨てられていることになるだろう。
 不確実性要因は他にもある。高感受性群の存在に起因する不確実性、データの質に起因する不確実性、動物実験からNOAEL(無毒性量)が得られず、LOAEL(最小毒性量)しか得られない場合があるが、その時LOAELからNOAELを推定するときの不確実性などである。これらの不確実性係数を乗算すれば、トータルの係数は1000~10000にもなる可能性があるが、現実に適用される係数は100以下におさめられている。かって急性毒性について用いられてきた安全係数10~100は、経験から「まあこんなものだろう」として適用されてきたが、不確実性係数も結局は1000や10000では使い物にならないから100以内におさめられているという側面があるようである。

                                (つづく)

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