環境リスク論は「不安の海の羅針盤」か?(2)2007/01/25 22:59

6. リスク科学の危うさ
近代科学技術が成功を収めた背景には定量的手法が根底にある。従って、定量的手法になじまない領域は未知のままで取り残されてきた。近年重要性が指摘されて、科学研究費が流れ込むようになった生態学などはそうした領域にあり、研究費が増えてもそう簡単に成果が上がるとは思えない。
リスク科学が対象とする不確実な事象もまた定量的手法になじまない。やむなくそれを確率として表現して、無理やりに定量的方法で取り扱ってしまおうというやりかたである。しかし、対象が極めて不確実で、数値化するときに無理に無理を重ねているにもかかわらず、いったん数値化されてしまうと従来成功してきた可知領域と同じような扱いを受ける。ましてや、その計算結果を提示された市民や行政を含めた非専門家に対して、可知領域での計算結果と同等の威力を発揮してしまう。このことについてリスク科学に携わる研究者は相当な自戒の精神を持ってあたる必要があるであろう。
白鳥11)は、「リスク科学」は実証科学ではないと述べ、ワインバーグがトランスサイエンスtrans-scienceと呼んだ領域、すなわち「原理的には科学で扱える筈でも、条件が制御できないために実際上は科学が扱えない領域」があることを紹介している。
菅原努12)は、やはりワインバーグの著書について、科学の世界で出された問題で科学だけで決着がつかないもの、例えば低線量放射線問題、まれにしか起こらない事故などについて、科学と政治との間にトランスサイエンスという領域を挟みこむという提案があると紹介し、「トランスサイエンスの世界では科学者も余り科学を振り回さないように注意するべきだ」と述べている。
食品安全委員会プリオン専門調査会委員であった金子清俊13)は、専門委員会に諮問されたのは「科学に基づいたBSE対策についてのリスク評価ではなかった」と述べている。同じBSE牛問題に関して、人体への感染の可能性が指摘されていたにもかかわらず、当時のイギリスの専門委員会は「可能性あり」の結論は世論に大きな影響を与えるという政治的判断を優先して「可能性なし」との結論を発表し、その後の悲惨な人体感染を招いたという話は有名である。

7. 予防原則
予防原則については、本誌、安藤直彦論文で欧米における近年の論争に関する詳しい報告があるので詳述は避ける。
地球環境サミット(1992年)のリオ宣言第15原則14)では「環境を保護するため、予防的方策は、各国により、その能力に応じて広く適用されなければならない。深刻な、あるいは不可逆的な被害のおそれがある場合には、完全な科学的確実性の欠如が、環境悪化を防止するための費用対効果の大きな対策を延期する理由として使われてはならない。」とされていることは有名である。これに先立って予防原則の考え方は、1970年代にドイツの環境保護政策に採用され、国連「世界自然憲章」(1982年)に盛り込まれ、第2回北海保護国際会議(1987年)で「the principle of precautionary action」という用語が初めて用いられたとされている。1998年にはウイングスプレッド宣言15)が発表された。
この予防原則がリスクアセスメントに対抗するものなのか、互いに補完しあうものなのかについてリスク論側の主張を見ておきたい。中西らが編集した「環境リスクマネジメントハンドブック」5)において、岡敏広は以下のように述べている(同書368ページ)。-「科学的に不確実な状況下での意志決定の必要性は環境問題の歴史とともにあるのだが・・・(このような場合に適用されてきた予防原則は)科学者からは一種の「割り切り」としか意識されなかった。逆に、政治家や市民の中には、そのような決定があたかも科学根拠に基づいているような幻想を持つ空気があったが、(実は)確かに「割り切り」であった。・・・割り切りである限り、・・・予防の側に大きくふれた振り子が、やがて非予防の側に振り戻されたり、・・・熱が醒めると色褪せて見えたりといったことが繰り返されるしかなかった。・・・リスク評価は部分的に科学的知見を取りいれるが、全部が科学的ではない。それはむしろ、科学的に不確かな要素が残っている時の意志決定を、システマティックに一貫性を持って行うための道具である」-非科学的な予防原則に替わる「部分的に科学的な意志決定手段」としてリスク評価、リスク管理を位置づけているのである。
同じハンドブックで(同書410ページ)、岸本充生は、予防原則をリスク評価に取って代わるべき科学的プロセスとするSantilloらの主張16)に対するChapmanの反論17)「予防原則はリスク管理のための数多くのアプローチのうちの一つに過ぎない」を示して、予防原則の4つのジレンマを指摘している。すなわち、1)予防原則を適用すると対策費用が通常よりもはるかに多くかかる可能性があり、2)予防原則が新たなリスクを引き起こす可能性があるとして、トリハロメタンによる発ガンリスクを回避するために病原性微生物による感染症リスクを見落とした事例や、DDT禁止によるマラリア患者の増加の例を挙げ、3)対象となるハザードが用量によっては便益をもたらす可能性を見逃す可能性ありとして、低線量放射線暴露によるホルミシスを例に挙げ、4)予防原則による決断を行わずに研究投資することが賢明である可能性として、研究によって不確実性が減少して正しい決断にたどりつける可能性を挙げている。
二人の主張はいずれも、予防原則は科学的手段だと誤解される傾向があるが非科学的であり、一部不確実な(科学的でない)部分を含むとはいえ、リスク評価、管理手法は合理的で優れているというものである。しかし、すでに前節で述べたように「部分的に科学的な(実証科学的なという意味だと思われるが)」手法がより科学的である保証はどこにもない。むしろ科学的であることを装って、その結論を市民、国民に押しつけるやりかたがはびこっている弊害の方が大きいのではないだろうか。「部分的に科学的である」ことは、専門家や行政担当者をも「科学的に得られた結論である」という自己暗示にひきずりこむ可能性が高いように思われる。不確実領域に対する態度、やり方として、予防原則の方がむしろ科学的態度を貫いているのではないだろうか。このことについては、BSE牛対策としての全頭検査は正しかったとする予防原則側からの指摘を紹介しながら、具体的に次節で述べる。
さらに、岸本の示した4つのジレンマは、予防原則に限定される問題ではないことも指摘しておきたい。リスク便益分析法はコスト便益分析の一種であることは「ハンドブック」5)も認めていることであるが、そのコスト便益分析法の失敗事例がある。次節で詳しく述べるが、1970年代のアメリカで厳しい自動車排ガス規制を目指したマスキー法がコスト便益分析の結果から廃案となった。そのアメリカ車が、日本版マスキー法の厳しい基準をクリアするために技術開発に励み、その副産物として低燃費となった日本車に敗北した。この事例は、コスト便益分析の不確かさ、既存の常識や枠組みにとらわれて保守的な結論を導きがちであり、想定外の事態に対応出来ない致命的な欠点があることを示している。追加的な費用がかかってしまう可能性はリスク手法側にもあるのである。また、予防原則が新たなリスクを引き起こすという指摘は、予防原則手法を矮小化している。水道水による感染症リスクを見落とすかどうかは予防原則固有の問題ではない。また、ホルミシスの存在については、原発や放射線利用推進側の宣伝材料に使われてはいるが、科学的に実証されているとは言い難い。このような不確かな現象についてリスク評価したからといって、より科学的になるわけではないから、予防原則が低用量の便益を見落とす可能性があるとの指摘は適切ではない。最後の指摘については、研究投資して化学物質の使用を禁止しなかった場合のリスクについてふれていないこと、予防原則を適用したからといって研究投資をしないわけではなく、まずとりあえずは使用禁止にして、安全性が証明されたら使用を再開すればよいわけだから、岸本の指摘は不適切である。
                                    (つづく)

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